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「……水、飲みてぇ」
しばらくは荒い息を整えるのに必死だった様子だが、やがてそう彼は呟いた。それは独り言のつもりだったのだろうが、エドワードを疲れ果てさせたのは明らかに自分だったし、面倒だとも思わなかったから水を運んでやることにする。
部屋の間取りはすでに覚えていたが、普段使用しない部屋については何があるのか全く覚えていない。それこそ、気がつけばエドワードの研究室にでもなっているかも知れない。あとは徐々に本に埋もれる部屋が出てくるだろうが、邪魔になったら家具を片付ければ良いだけの話だ。
水をグラスに注ぐとベッドルームへと戻るため再び歩き出す。これから一眠りしたら、すぐに朝はやってくるだろう。まだエドワードを離したくない気もするが、さすがにこれ以上負担をかけるのは躊躇われる。明日も明後日も、この屋敷に戻れば彼はいるのだから慌てる必要もないはずだ、と自分に言い聞かせた。
ベッドルームに戻ると、彼はロイがキッチンへと向かったときと全く同じ状態でベッドに横たわっていた。相当気怠い様子だ。おそらく明日はあまり自由に動けないだろうが、どうにも自分を制御できなかったのだから仕方ない。シーツに散る金髪が美しく、どこか幻想的だった。
「……水」
彼の横に腰を下ろすと、ロイが手にしていたグラスに気付いたらしい。ぼんやりとグラスを見つめている。どうやらまだ、思考がはっきりとはしていないらしい。
視線を感じながら、グラスの中の水を一度口に含んだ。そうしてエドワードを引き寄せ、口移しで水を送る。こくん、と彼の喉が鳴った。
「もう少し飲むか?」
尋ねると、小さく頷いた。ならば、ともう一度同じ作業を繰り返す。エドワードも同じように水を口にし、嚥下した。三度目には悪戯心が沸いて、そのまま舌を絡めてやる。エドワードは驚いた様子だったが、抵抗は示さなかった。教えたとおり、たどたどしく自らも舌を使う。
「ん、……ん、ん……っ」
存分に彼に口腔を味わった後、唇を離す。せっかく整った彼の息が、また乱れていた。
「……っ、今日はもう、良いだろ……っ」
「そのつもりだったが、止まらなくなってきた。困ったことだな」
「マジ、今日は無理……っ!」
半泣き状態で訴えられ、仕方なくその続きは諦めることにする。ロイが本気で望むならエドワードが何を言ったところでやめはしないだろうが、先ほども今日は自粛しようと思ったばかりだ。
「仕方ないな。では明日を楽しみにしているよ」
言って頬に軽く口づけると、みるみる彼は赤面する。
「こーいう恥ずかしいことすんな……っ!」
真っ赤になったまま、エドワードは怒鳴った。少なくとも、本人は怒鳴ったつもりだろう。だが、声は掠れ、迫力不足は否めない。
「そこで怒鳴られる理由がわからないな。君は私のもので、私がどんな風に触れようが私の自由のはずだ」
「さっきも言っただろ。オレはあんたの恋人じゃないし、だからあんなことする必要ない」
力強く断言され、苦笑を浮かべる。彼なりの恋人のイメージがぼんやりとではあるが理解できた気がした。
「君は私に恋していないかも知れないが、私は君に恋しているんだ。これくらいは許して欲しいな」
「……必要ねぇだろ、そんなのは。オレの身体使って、性欲を解消して、それで終わりで良いじゃねぇか」
酷く残酷なことを、エドワードはさも当然、と言わんばかりに告げる。確かに、それで良い、という考え方も存在するだろうし、それ自体を否定するつもりもない。だが、そうしろ、と言われてもそれは不可能だった。
けれど、そうなることをエドワードは望んでいる。自分たちの関係は恋人同士ではない。等価交換の結果、身体を与えているに過ぎない。エドワードにとって、そこに恋愛感情は存在しない。
――――存在してはならない。
おそらく頑なに彼はそう思っているに違いない。それも、無意識に。
石と引き替えに、彼はその身を差し出した。けれど、心までは明け渡すつもりはない。少なくとも、エドワードはそのつもりだ。だから、恋人のような触れ合いは必要ない、ということになる。だから、彼に優しくする必要もない。理由もない。そんな風に考えている。
ただの取引の結果の関係。それだけの。
「それでは私が味気なくてつまらない。こういうことは味気ないよりも、お互い愉しんだ方が良いだろう?」
だからロイは言葉を紡ぐ。笑いながら。
「……オレは別に、つまんなくて良いし。愉しみたいわけじゃねぇ」
「私は愉しみたいんだ。それに、君を好きにして良い、と言ったのは鋼の自身だったと思うが」
身体を好きにして良い以上、その身体に快楽を与えるのも、他愛なく触れるのも、全て自分の自由であるはずだ。そう告げると、エドワードは押し黙った。
「君が素っ気ない関係を望むのは自由だが、叶える義理は私にはないし、叶えるつもりもない。君はただ、私に従って身体を差し出せば良いんだ」
「……っ」
傲慢な台詞に、エドワードは唇を噛む。だが、反論は返ってこない。
悔しさもあるだろうが、一方で彼は安心したはずだ。これはやはり、恋愛ではないのだと。契約、あるいは誓約にすぎないのだ、と。
「返事は?」
「……分かったよ」
ぶっきらぼうに言い放ち、身体の向きを変えた。まるでロイの顔を見たくはない、とでも言うように。その様に苦笑した。
「もう眠ると良い。疲れただろう?」
「言われなくても寝るっての」
表情を隠したまま、エドワードは言う。殊勝さはあまり見えない。それでも、もしロイが何かを命じれば、その時は従うのだろう。それがどんなに意に沿わないことだとしても。
(恋人じゃない、か)
本当に、その通りだ。自分たちは恋人ではない。今後、何度でも自分は彼を抱くだろう。だが、それは恋人としてではなかった。
それこそが、エドワードの最後のプライドなのだろう。彼にたった一つ残された。彼の守るべきプライド。
本当は知っている。
エドワードも、ロイのことを遠からず思っていた、ということを。愛を囁き、恋を告げた時も、だから彼は自分を気味悪がって避ける、などということはしなかった。惑い、困り、時には怒ったが、それでも彼は反発しながらも自分の元へと数ヶ月に一度ではあってもやってきた。
もしも賢者の石一つで彼の弟が無事に元の姿を手に入れたなら、きっと未来は変わっていただろう。
だが、それは今となってはたとえ話にしかならない。もしも、という夢想でしかなかった。
事実として、賢者の石一つでは人間一人を完全な姿で再生することはできなかった。賢者の石であっても、完全なる人間は作れなかった。それほどまでに、人間とは複雑な生き物だった、というわけだ。
例え、ロイの持つ賢者の石を例え無償でエドワードに渡したとしても、エドワードは借りとして受け止めたに違いない。結局、賢者の石が一つではアルフォンスが元の姿で健康を得ることができず、ロイの石を頼った時点でエドワードとロイは対等ではあり得ない。それは部下とか上官とは違う次元での問題だった。
ロイが自分に対して恋心を抱いていると知っていれば尚更だ。おそらく、エドワードはその借りを返すことばかり考えるのは間違いない。場合によっては、やはり彼からその身をロイに委ねた可能性もある。その潔さ故、そして愚かさ故に。
或いは、ロイという存在を忘れて暮らすことを望むだろう。心の片隅に借りを作ったという凝りを残しながら、それでも穏やかに生きることを。
無論、可能性は無限にある。確実な未来など存在しないことくらい、ロイも承知していた。
だが、エドワードの心の動きは容易に予測がつく。彼を見ていた故に。彼に恋していた故に、ほぼ正確にその行動も想像ができた。
賢者の石は足りなかった。そしてロイの石が必要だった。その事実がある限り、エドワードとロイは対等ではなくなる。少なくとも、エドワードの中では。
そしてその瞬間から、恋愛関係は永遠に成立しなくなる。当たり前だ。恋愛とは対等でなければできないのだから。
だからエドワードはロイに恋などしない。そんなことはあり得ない。あってはならない。永遠に。あるのは肉体関係だけで良い。恋愛感情など必要ない。
そうやって、彼は無意識に自分自身を納得させる。石を得ることで引け目を感じ、身体を売り、だからこそ心だけは明け渡さない。
それはどこかいびつな思考に違いなかったが、それを言えばロイ自身の思考は更に歪んでいる。
(恋人でなくとも、構わない)
そう、ロイは思う。
自分は彼に恋している。そして彼は自分のものだ。少なくとも、その身体は。それ以上のことを望もうとは思わない。
彼が自分に恋しなくても良い。その代わり、他の誰も見ないというのなら、それで良い。この屋敷に留まり、ロイに囚われてくれるのならばそれだけで良かった。
望んだ相手を自分は確かに得た。ならば、自分は誰よりも幸福と言えるだろう。――――願いは叶った。
太陽のような輝きを持つ金の髪と瞳の持ち主。誰よりも輝かしい錬金術師。
そんな彼に恋をした。欲しかった。ひたすらに、欲しかった。だから手に入れた。
手段などどうでも良い。自分が惹かれ、愛しいと思った笑顔はもう見せないかも知れない。それでも、手に入らないよりはずっと良い。
いつの間にか、迷いは消滅していた。それは欠片も残されてはいない。彼の幸福を願う、そんな大人に自分はなれなかった。それだけのことだ。自分の闇はあまりにも深く、大きい。彼を飲み込み、閉じ込めるほどに。
そしていつしか、その闇に自身も堕ちていく。それは明確な予感だった。
より一層、自分はこの子どもに溺れるだろう。更に手放すことなどできなくなる。
当たり前だ。闇の中でさえ、彼の存在は鮮やかに違いなかった。
夜の闇、漆黒の影に存在する、鮮やかすぎる色彩。眩しくて眩しくて、だからこそ焦がれ、手を伸ばさずにはいられない。
気がつけばエドワードはすでに寝入っている。彼は自らやって来た。ロイの腕の中へ。ロイの闇の中へ。そして、この閉じられた屋敷へ。
もう離さない。永遠に。
だからロイは微笑む。今、自分は確かに幸福だった。そう、これ以上ないほど。否、これからも幸福であり続けるだろう。
この子どもは自分が望む限り、側にいると約束したのだから。
本当に、とロイは思う。
本当に、今宵は良い夜だ。これ以上ないほど鮮やかな夜だ、と。
満足げに笑い、ロイも僅かな眠りを得るためにベッドに身を委ねる。そうして闇の中、誰よりも愛しく、鮮やかな存在を夢の中ですら手放さないかのように抱きしめた。
END